子供に不寛容な社会は子供を知らない社会か

エピソード①マサ子は2歳の子供(タロウ)を育てる専業主婦。今日は電車で1時間ほどかけ、マサ子の母親の家にタロウを連れていく予定である。電車が好きなタロウであるが、現在「イヤイヤ期」真っ盛り。マサ子は母の家までタロウが愚図らずに行けるのか、周囲に迷惑をかけないか、心配でたまらない。
案の定、電車に乗ったタロウはすぐに飽きてしまい、うろうろし始めた。何度か注意を促したものの、効果がなく、少し強めの口調でマサ子はこういった。

マサ子「タロちゃん、電車の中でうろちょろしない。ほかの人の迷惑になるでしょう。」
タロウ「いや!」
マサ子「(あーまずいなぁ。)タロちゃん、静かにしようね。電車の中では。」
タロウ「いや!静かにするのいや!!!!!!!!!(うわ~~~~~~)」
乗客A「チッ」
マサ子「タロちゃん、電車の中では静かにしないとだめなの。」
乗客A子供を電車になんか乗せんなよ(小声)
マサ子「すみません、すみません。タロちゃんなんでいうこと聞けないの・・・」
女性お母さん大丈夫ですよ。あらあら泣いちゃったのね。いやだったね。電車乗るの好きなの?
タロウ「・・・・・・(びっくりした顔)」
女性「好きだからうれしいよね。色々見たいのよね。おばあちゃんも電車大好きなのよ。」
タロウ「うん。好き。(タロウ泣き止む)」

さて、本記事では最初に具体的エピソードとして、電車内での育児あるあるを紹介しました。
このエピソードに対しては様々な意見が出ると思われます。たとえば、「なんと優しい女性。でも現実にはこんな人あまりいないよね。」「男性乗客はひどい」でしょうか。一方「男性乗客の気持ちもわかる。」「子供をあやせないのなら電車に乗るべきではない」という意見もあるかもしれません。

本記事は特定の人の言動や行動を批判することを目指していません。それよりも、特定の人の言動や行為が現れるとき、そこには一体どのような背景があるのか、その要因を探っていきたいと考えています。

本記事で検討したいのが、乗客Aと女性の対応の違いです。乗客Aは泣いている子供をうまくあやせない状況を見て、「子供を電車に乗せるな」とマサ子を批判しています。子育て中のお母さん方なら絶対に会いたくないタイプの人だと思うかもしれません。(笑)ここまでのケースにはあまり遭遇しないかもしれませんが、公共交通機関を利用したり買い物をした際に子供が愚図ってしまい、他人の目が痛いと感じるお母さん(お父さん)は多いのではないでしょうか。

一方で女性は乗客Aとの対応と大きく異なっています。マサ子に大丈夫よ、と述べたうえでタロウの気持ちを代弁し、しかも泣き止ませるための声掛けまでしてくれています。こんな人がもっと世の中に増えれば、どれだけ子育てがしやすくなるのやら、と思います。

乗客Aと女性の対応の違いは一体どこで生じるのでしょうか?実際には、機嫌が良かった悪かった、子供が好きか嫌いなど、複数の要因が考えられます。しかしながらここではあえて1つに限定して考えてみたいと思います。それは「子どもがどういう人間か知っているか、そうでないか」です。

まず子どもは泣くものです。注意すれば泣き止むというものではありません。大人にとっては全く意味の分からない(ようにみえる)理由で泣くこともあります。特に幼い年代ですと、基本的に感情をコントロールすることはできません。

したがってもしこの状況で泣き止ませたいのだとすれば、落ち着いて気をそらすことが必要になってくるのではないかと思います。この女性がやったような行為ですね。

もちろん母親自身が「気のそらし」を実施すればよいのですが、(厳しい方ならそれが母親の責任だと言われるかもしれません。)いつもお世話をしているお母さんであっても、十分に対応しきれない状況が子育てにはあるということです。気のそらしがうまくいかない場合もあります。
そんな時子どもを含めてお母さんにも寛容になってあげる、代わりに気をそらしてあげられる、そんな人が増えればどんなにいいのかなと思います。

しかしながら残念なことに、このエピソードに登場するような女性に遭遇することは日本では珍しいのではないでしょうか。わたしは現代の日本社会は「子ども」がどういった存在かを理解しておらず、その結果、子どもへの寛容さが失われているのではないかと考えます。
そしてこの状況がエスカレートすると、子どもを異質なものとしてとらえ、大人の手でコントロールしたり排除する方向性をもっているのではないかと考えています。実際に「子どもを電車に乗せるな」という話は、頻繁にインターネット上で討論となります。

その際に取り上げられるのが、「今のお母さんはマナーがなっていない」「しつけができない」という話です。しかしマナーがなっていようがなかろうが、子供は愚図るときは愚図ります。

またマナーがなっていないのはお母さんの中の一部であり、そもそもマナーがなっていないのはお母さんだけではありません。終電間際のサラリーマンのほうがよっぽどうるさい、ということはありませんか?しかしその場合「酔っぱらいを電車に乗せるな」という議論にはあまりなりません。電車に乗り合わせている人たちはうるさいなと思いながらも、「そういう人ばかりだし」、「そもそも自分も酔っているし」、ということで我慢したり流したりしているのではないでしょうか。同様の指摘は、こちら(「子どもの泣き声に大人が不寛容な理由」2016年10月15日)の記事にもありました。


少し話がそれましたが、一部のお母さんの行為をお母さん全体に一般化して「子どもは電車に乗せるな」という主張は妥当なものとは思えません。

とはいえ日本の不寛容社会は世代を超えて浸透しきっているため、そこから脱却することは多分に難しいといえます。そのような社会で子育てをしていかなければならない。ではどうするか。ここでは2つのアプローチをとる必要があると思います。第一に不寛容社会を変えようとする試みです。第二に不寛容社会をサバイブするための術を身に着けることです。これは個々のお母さん方が個別に取り組むべきものなのかもしれません。

しかし二の方向に傾きすぎると、一の必要性が見えなくなってきます。結果としてお母さんと子供が我慢すればそれで解決となる危険性があります。

子どもは社会にとって宝です。それに異論を唱える人はあまりいません。しかし宝が果たして宝として扱われているかどうかは、あまり検討されていないように思います。