「最初から専業主婦志望の女の子は無理」な男たち

「女は25歳を過ぎたら売れ残り。」

現代の女性はこのような発言を表立って言われることは少ない。しかし近年でも、女性が結婚や出産のタイムリミットを感じ、焦ることは一般的、よくあることだ。

とくに30歳前後は結婚か仕事かという二者択一に迫られる可能性の高い、女性にとって非常に不安定な時期である。現代は共働き家庭の数も増加し、結婚しても、出産しても働くことがスタンダードになりつつある。しかし結婚しても、出産しても「正社員」として働くことが可能なのは、意外とラッキーな人であるということを、多くの人は知らない。

わたしがこのような「フルタイムで共働き意外とラッキー説」考えるに至ったのは、以下に述べることがきっかけであった。

先日、飲み会の際に独身男性(仮名Aさん)と結婚相手の理想について話した。Aさんは大手企業に勤める男性で、5~10年で勤務地が変わるいわゆる転勤族のサラリーマンである。Aさんはハンサムで人当りも良く、女性陣からすれば、「なんでこの人まだ結婚していないんだろう?」と思わせる雰囲気をもっていた。本人からすれば大きなお世話である。

予想通り、酔った女たちはAさんがなぜ独身なのかを調査し始めた。そして彼は結婚相手の理想を聞かれた際、「特に理想はないけど、最初から専業主婦志望の女の子は無理だな」と言った。

その理由としては、最初から専業主婦志望の女性は経済的に夫に依存する傾向が強いからだそうだ。したがって経済的に自立している女性がお好みらしいのだが、男性並みに働く女性(いわゆるバリキャリと呼ばれる人たち)が好きというわけでもないという。また、最初から専業主婦を志望する女性が嫌なだけで、仕事と子育ての両立の結果、やむを得ず専業主婦を選ぶというのはありらしかった。また別居婚については、最終的に単身赴任はありだが、結婚当初から別居はないという話だった。

その時は「ふーんなるほどね」と聞いていたのだが、彼のような考えを持った人は多いようだった。わたしは以前、社内婚が非常に多い企業で働いていおり、結婚当初から別居婚で共働きという夫婦も一定数いたので、そういうものかと少しモヤモヤとした感情を抱いた。

話を聞くとどうやら彼の会社の男性社員の妻は専業主婦が多いらしかった。男性の転勤が多く、もし夫に妻が帯同する場合、よほどの専門職でなければ仕事を探すのが難しいためだ。

しかしそのような状況をふまえると、彼の「最初から専業主婦志望の女の子は無理だな。」発言はどこか不自然に感じられる。なぜなら別居婚を望まず妻に転勤についてきて欲しいのであれば、最初から専業主婦を望む女性のほうが、都合がよさそうだからだ。

最初から専業主婦を志望しないが、結果的に専業主婦はあり…ということは、専業主婦を選択せざるを得ない状況であれば、専業主婦を選択しても良いということになる。しかしハナから男性に経済的に依存する女性ではいけない。一体「最初から専業主婦志望ではない女性」とはどんな女性なのだろうか。

彼の真意は十分にわからないため、ここではあくまで独自の見解を述べる。わたしは最初から専業主婦志望ではない女性というのは、いざとなったら自分と同じように働く意欲のある女性、つまり家庭の経済状況によって柔軟に働いてくれる女性を指しているのではないかと考えている。

国立社会保障・人口問題研究所が2015年に実施した「第5回出生動向基本調査」によれば、男性がパートナー(あるいは妻)となる女性にはどのようなタイプの人生を送ってほしいと思いますか」の質問に対して、男性の37.4%が女性に「結婚し子どもを持つが、結婚あるいは出産の機会にいったん退職し、子育て後に再び仕事を持つ」ことを望んでいることが分かっている。

これはさきほど紹介した男性の理想におおむね一致するのではないだろうか。何かあったら家計を助けてくれる(しかし自分が稼ぐので、メインではなくていい)。けれど子供が小さい間は仕事をセーブし、家事や育児に従事してくれる女性である。これは一部の男性にとって非常に都合の良い存在である。

それでは女性にとって「結婚し子どもを持つが、結婚あるいは出産の機会にいったん退職し、子育て後に再び仕事を持つ」というライフコースは、果たして都合がいいのだろうか。

さきほど紹介した「第5回出生動向基本調査」によれば、女性は「現実の人生と切りはなして、あなたの理想とする人生はどのようなタイプですか」という質問に対して、34.6%が「結婚し子どもを持つが、結婚あるいは出産の機会にいったん退職し、子育て後に再び仕事を持つ」ことを理想としていた。これは「結婚し子どもを持つが、仕事も一生続ける」の32.3%とほぼ同じである。女性も男性と同様に、ある一定数「結婚し子どもを持つが、結婚あるいは出産の機会にいったん退職し、子育て後に再び仕事を持つ」ことを支持していることが分かる。

この背景には日本における男性の育児休暇取得率の低さや、保活の厳しさなどの問題に加え、女性自身が「やはり子供が小さいうちは母親が面倒をみるべきだ」と考えていることが大きいように思う。

もちろん男性側も女性側も「結婚し子どもを持つが、結婚あるいは出産の機会にいったん退職し、子育て後に再び仕事を持つ」ことが理想なのであれば、お互いの希望が一致したことになり、とりわけ問題視することではないのかもしれない。

しかしながら必ずしも、「結婚し子どもを持つが、結婚あるいは出産の機会にいったん退職し、子育て後に再び仕事を持つ」ことを理想する男性のパートナーが、そのことを理想とする女性とは限らない。そのような女性は結婚、もしくは出産の際、葛藤することになる。

一つ事例を紹介したい。私の友人Aはまさに、プロポーズの際、「結婚か」「仕事か」の二者択一に迫られた。彼女は大手の会社で働いており、昇進を希望していたがかなわなかった。その折に彼女は付き合っていた男性からプロポーズを受ける。

彼女の結婚する男性は海外勤務が決まっており、そのことをきっかけに知人にプロポーズしたらしい。男性はAについてきてくれることを望んでいた。男性は友人に「僕はAの選択を尊重したい。人生にかかわる大切なことだから、じっくり悩んで決めてほしい」と言ったという。彼はAを尊重してそのように言ったのだと思う。しかし人生における重大な決断を女性のみに判断させることは、過酷である。最大限に卑しい見方をすれば、何かあってもあなたが決めたのだから。という責任逃れができる。

また一方で、女性側が「結婚し子どもを持つが、結婚あるいは出産の機会にいったん退職し、子育て後に再び仕事を持つ」ことを理想として、実際にそのようなライフコースをすすんだとする。このライフコースもまた、別の問題にぶち当たる可能性がある。それは子育てが落ち着いた際に彼女たちが働き口を希望しても、正社員としての再就職が難しいことである。結果たとえ再就職したとしても非正規雇用で働くことが多く、景気の後退によって不安定な雇用になりやすい。今回のコロナ禍では非正規労働者である女性が簡単に切り捨てられる姿が浮き彫りになった。

「結婚し子どもを持つが、結婚あるいは出産の機会にいったん退職し、子育て後に再び仕事を持つ」女性は、企業にとっても雇用の調整弁として都合のいい存在である。

現代は共働き家庭の数も増加し、結婚しても、出産しても働くことがスタンダードになりつつある。しかし結婚しても、出産しても「正社員」として働くことが可能なのは、意外とラッキーな人であるとのかもしれない。なぜなら、男性の一定層が「結婚し子どもを持つが、結婚あるいは出産の機会にいったん退職し、子育て後に再び仕事を持つ」ことを理想としているからである。

現在日本では制度、仕組みを整えたとしても、女性の社会進出がすすむことは難しいだろう。根本で、性別役割分業の意識がある限り問題は解決しない。制度が活用されることがなかったり形骸化してしまうだろう。

イヤイヤ期がない親の特徴とは

わたしは現在2歳の息子を育てている。

2歳といえば、「魔の2歳児」とよばれるすべての事柄に対していやを連発し、親を確実に疲弊させていく恐ろしい世代である。

わたしの息子は外面がいいらしく、外ではイヤイヤいうことは少ないのだが、その分家庭内ではただひたすらにいやいやいやいやを爆発させている。

お気に入りの毛布を洗濯しようとすればイヤ!ジュースでなくお茶を渡せばイヤ!お風呂の時間は絶対にイヤ!お散歩もイヤ!とにかくすべてがイヤ!

息子はフランス料理のフルコースのように、食事のメニューごとにスプーン、フォークを取り換えるのだが、わたしがその数を1つ見誤ったことが原因で「スプーンなぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぃいいいいいいいいいややややややあああ」と30分泣き続けていた。

わたしは元々子どもの扱いに慣れていなかったこともあり、このイヤイヤ期にはずいぶん苦しめられてきた。いや、今も苦しめられているのだが、イヤイヤ期開始から時間がたったこともあり、イヤイヤ期の子どもの対応および、親の気持ちの持ちようについてはほんっつつつの少しだけ理解が少し進んだように感じている。

それはある出来事がきっかけであった。

あるスーパーマーケットで子ども(推定2歳)が泣き叫んでいた。よくみるとそれは知り合いの子どもであった。どうやら自分の求めるお菓子が購入してもらえず、泣き叫んでいるようだった。

わたしはお気の毒に…と気持ちで知り合いに近づき、あいさつをした。

そして「イヤイヤ期たいへんだよね。」といった。すると予想もしなかった言葉がかえってきた。

「うーん、うちの子はあんまりイヤイヤってのはないんだけどね。でもまぁたいへんだよね。こう泣いちゃうと」

私は耳を疑った。え?イヤイヤ期ない?今まさに泣いてるのがイヤイヤではないのか???

彼女に思わず聞くと、彼女は「これはイヤイヤしているわけではない」と言った。「これは自己主張であって、イヤイヤしているわけではないよ。」ときっぱり答えた。

えーどう考えてもイヤイヤしてるやーんと心の底からつっこんだ。というか自己主張=イヤイヤではないのか。私の理解を超越した回答に、困惑した。しかし彼女は、息子が暴れまわり自己主張することを「イヤイヤ」として捉えていないことがわかった。

もしかするとイヤイヤ期なんて、幻想で実際にはないのかもしれない。イヤイヤ期があった、なかった、ひどかった、というのは、あくまで親の解釈で決まる。2歳代になると「イヤイヤ期がはじまった」、「今がイヤイヤ期のピークだ」と考えることが多いが、それはあくまで親が子供を「イヤイヤ期」というワードで解釈し、勝手にイヤイヤ期を設定しているのである。

もちろん2歳代になると、自主性や自律性がめばえ、自我を爆発する時期が、多かれ少なかれどの子供にもあると思う。それは発達心理学の知見からも明らかにされている。しかしそれがイヤイヤ期とネガティブに解釈するのは親である。わたしはそのことに気付かされた。

とはいえ「なるほどイヤイヤ期って結局気持ちの持ちようなんだ!」と気づいたところで急に子どもに優しくなれる親ではないことが、つらいところではある。子供はあいかわらずイヤイヤを辞めない。したがって毎日爆発しそうな感情を何とか調整し、時には爆発しながら子育てをしている。

しかし子供を見るうえで大切な視点を彼女から教えてもらった気がした。

ミルク育児をするお母さんの肩身がせまいなんて、どうかしている

世の中には数多く〇〇神話が存在する。この神話という言葉は母親たちを苦しめる規範としてネガティブに捉えられることが多い。

その中でも私が苦しんだのは母乳神話だった。

子供があの頃と比較すると成長し、幼稚園に通うようになった今になってみると、なぜミルク育児のことをあれほど引け目に考えていたのだろうと思う。

出産して1か月ほどは、ほぼ毎日ミルク育児のデメリット、メリットを検索していた。また人に、お母さんのおっぱい飲みたいのかな?とおっぱいの話題を出されることさえ嫌だった。

ミルク育児をしているダメな母親だと思われるのだが嫌だったため、健診や人に聞かれた際は「混合です」と答えていた。

思えば出産前はミルクで育てるか母乳で育てるのかについてはこだわりが、ほとんどなかった。しかし出産した病院が、母乳育児推進の病院であったことから、産後は母乳で育児することが当然だと考えるようになっていった。

私の息子は全く乳首を吸わなかった。助産師さんが無理やり口をおっぱいにもっていくのだがそれでも吸わない。そのため助産師さんは3時間ごとに搾乳、おっぱいを吸う練習(練習しても吸わないのだが)15分ほど→吸わない場合はミルク というローテーションを3時間ごとに実施するようわたしに言った。

結局入院していた間に息子が乳首を加えることはできなかったのだが、退院後も当たり前のように母乳外来を予約するよう指示があり、里帰りから帰るまでの1か月1週間ごとに母乳外来に通った。

その際、助産師さんに「最初全く吸わない赤ちゃんでも4か月たって完全母乳になった赤ちゃんもいますよ。」と言われた。

わたしは彼女が何を言ってるのか全く分からなかった。こんな大変なことを4か月もする?他にもおむつをかえたり、お世話は山のようにあるのに、こんな大変なこと4か月もできるわけじゃない。

そこでぷつんと何かが切れ、わたしは授乳の練習をあっさりやめた。

しかしながらそのあとも1年間くらいはなぜあのとき頑張れなかったのかという思いが残った。頑張れなかったことに対する後悔というよりは、頑張れなかった自分は母親には向いていないのではないかという思いだった。

いつもミルク育児をしている理由、言い訳を考えていた。

「夜泣きがひどくて、精神的に追い詰められていた」

「何か月たっても息子が乳首を吸わなかった」

人に「ミルクで育ててるの?」と何気なく聞かれるたび、責められているように感じていた。

このような経験を持つ私であるが、本当に今になると、なんであんなことを気にしていたのか、まるでわからないのだ。

今、ミルク育児に罪悪感を抱えているお母さん、ミルク育児に切り替えたいけれど、周囲や自分を納得させられるだけの理由が見つからないお母さんに一つわたしがいえることは次のことだ。

大丈夫、ミルクでも母乳でも赤ちゃんは育つ。デメリットもあると言われるが、はっきり言ってさほど気にすることではないと思う※。もちろんどうしても気になる人が、別の選択肢(母乳、混合)を目指して頑張ることは全く否定しない。

※もしミルク育児が母乳育児に対して極端に劣っているのであれば、ミルク育児が選択肢として提示されることはないだろう。

大切なのはお母さんが追い詰められたり嫌な気持ちになることではないのだろうか。

母乳育児=愛情の大きさだと語られることがあるが、ミルク育児のお母さんに失礼な発言である。それに、子育ては長い。子供への愛情が授乳方法だけで決まるわけがない。愛情をかけられることなんて、いくらでもある。

もしミルク育児にする十分な理由がない、でも実はミルクに変えたいと考えているお母さんがいるのなら、わたしがしていいよ、許可するよ。と言ってあげたい。

ミルク育児と検索すると、特に掲示板などで、「甘い」「なぜ頑張らない?」との声が上がる。育児で疲れているお母さんにそんな言葉しか投げかけられない人の声など、放っておけばよい。自分の意見の正しさを主張したいだけだ。

一人でもミルク育児のお母さんが楽な気持ちになれますよう。願っています。

子供に不寛容な社会は子供を知らない社会か

エピソード①マサ子は2歳の子供(タロウ)を育てる専業主婦。今日は電車で1時間ほどかけ、マサ子の母親の家にタロウを連れていく予定である。電車が好きなタロウであるが、現在「イヤイヤ期」真っ盛り。マサ子は母の家までタロウが愚図らずに行けるのか、周囲に迷惑をかけないか、心配でたまらない。
案の定、電車に乗ったタロウはすぐに飽きてしまい、うろうろし始めた。何度か注意を促したものの、効果がなく、少し強めの口調でマサ子はこういった。

マサ子「タロちゃん、電車の中でうろちょろしない。ほかの人の迷惑になるでしょう。」
タロウ「いや!」
マサ子「(あーまずいなぁ。)タロちゃん、静かにしようね。電車の中では。」
タロウ「いや!静かにするのいや!!!!!!!!!(うわ~~~~~~)」
乗客A「チッ」
マサ子「タロちゃん、電車の中では静かにしないとだめなの。」
乗客A子供を電車になんか乗せんなよ(小声)
マサ子「すみません、すみません。タロちゃんなんでいうこと聞けないの・・・」
女性お母さん大丈夫ですよ。あらあら泣いちゃったのね。いやだったね。電車乗るの好きなの?
タロウ「・・・・・・(びっくりした顔)」
女性「好きだからうれしいよね。色々見たいのよね。おばあちゃんも電車大好きなのよ。」
タロウ「うん。好き。(タロウ泣き止む)」

さて、本記事では最初に具体的エピソードとして、電車内での育児あるあるを紹介しました。
このエピソードに対しては様々な意見が出ると思われます。たとえば、「なんと優しい女性。でも現実にはこんな人あまりいないよね。」「男性乗客はひどい」でしょうか。一方「男性乗客の気持ちもわかる。」「子供をあやせないのなら電車に乗るべきではない」という意見もあるかもしれません。

本記事は特定の人の言動や行動を批判することを目指していません。それよりも、特定の人の言動や行為が現れるとき、そこには一体どのような背景があるのか、その要因を探っていきたいと考えています。

本記事で検討したいのが、乗客Aと女性の対応の違いです。乗客Aは泣いている子供をうまくあやせない状況を見て、「子供を電車に乗せるな」とマサ子を批判しています。子育て中のお母さん方なら絶対に会いたくないタイプの人だと思うかもしれません。(笑)ここまでのケースにはあまり遭遇しないかもしれませんが、公共交通機関を利用したり買い物をした際に子供が愚図ってしまい、他人の目が痛いと感じるお母さん(お父さん)は多いのではないでしょうか。

一方で女性は乗客Aとの対応と大きく異なっています。マサ子に大丈夫よ、と述べたうえでタロウの気持ちを代弁し、しかも泣き止ませるための声掛けまでしてくれています。こんな人がもっと世の中に増えれば、どれだけ子育てがしやすくなるのやら、と思います。

乗客Aと女性の対応の違いは一体どこで生じるのでしょうか?実際には、機嫌が良かった悪かった、子供が好きか嫌いなど、複数の要因が考えられます。しかしながらここではあえて1つに限定して考えてみたいと思います。それは「子どもがどういう人間か知っているか、そうでないか」です。

まず子どもは泣くものです。注意すれば泣き止むというものではありません。大人にとっては全く意味の分からない(ようにみえる)理由で泣くこともあります。特に幼い年代ですと、基本的に感情をコントロールすることはできません。

したがってもしこの状況で泣き止ませたいのだとすれば、落ち着いて気をそらすことが必要になってくるのではないかと思います。この女性がやったような行為ですね。

もちろん母親自身が「気のそらし」を実施すればよいのですが、(厳しい方ならそれが母親の責任だと言われるかもしれません。)いつもお世話をしているお母さんであっても、十分に対応しきれない状況が子育てにはあるということです。気のそらしがうまくいかない場合もあります。
そんな時子どもを含めてお母さんにも寛容になってあげる、代わりに気をそらしてあげられる、そんな人が増えればどんなにいいのかなと思います。

しかしながら残念なことに、このエピソードに登場するような女性に遭遇することは日本では珍しいのではないでしょうか。わたしは現代の日本社会は「子ども」がどういった存在かを理解しておらず、その結果、子どもへの寛容さが失われているのではないかと考えます。
そしてこの状況がエスカレートすると、子どもを異質なものとしてとらえ、大人の手でコントロールしたり排除する方向性をもっているのではないかと考えています。実際に「子どもを電車に乗せるな」という話は、頻繁にインターネット上で討論となります。

その際に取り上げられるのが、「今のお母さんはマナーがなっていない」「しつけができない」という話です。しかしマナーがなっていようがなかろうが、子供は愚図るときは愚図ります。

またマナーがなっていないのはお母さんの中の一部であり、そもそもマナーがなっていないのはお母さんだけではありません。終電間際のサラリーマンのほうがよっぽどうるさい、ということはありませんか?しかしその場合「酔っぱらいを電車に乗せるな」という議論にはあまりなりません。電車に乗り合わせている人たちはうるさいなと思いながらも、「そういう人ばかりだし」、「そもそも自分も酔っているし」、ということで我慢したり流したりしているのではないでしょうか。同様の指摘は、こちら(「子どもの泣き声に大人が不寛容な理由」2016年10月15日)の記事にもありました。


少し話がそれましたが、一部のお母さんの行為をお母さん全体に一般化して「子どもは電車に乗せるな」という主張は妥当なものとは思えません。

とはいえ日本の不寛容社会は世代を超えて浸透しきっているため、そこから脱却することは多分に難しいといえます。そのような社会で子育てをしていかなければならない。ではどうするか。ここでは2つのアプローチをとる必要があると思います。第一に不寛容社会を変えようとする試みです。第二に不寛容社会をサバイブするための術を身に着けることです。これは個々のお母さん方が個別に取り組むべきものなのかもしれません。

しかし二の方向に傾きすぎると、一の必要性が見えなくなってきます。結果としてお母さんと子供が我慢すればそれで解決となる危険性があります。

子どもは社会にとって宝です。それに異論を唱える人はあまりいません。しかし宝が果たして宝として扱われているかどうかは、あまり検討されていないように思います。

自分の努力で成功したと思っているすべての人々へ

この話は自身や周囲の経験を基にしたフィクションです。

「自分の努力で成功した」、そのように考えている人は多い。

実際、私もかつてはそうだった。特に18歳~24歳にかけて、私は自分の努力をみんなに誇示していた。誇示するに値する努力をしたと思っていたからだ。
私は18歳の時有名私立大学に現役で合格した。その大学は某国立大学ほどは偏差値が高くなかったけれど、女子が合格するには十分な水準の、つまりその大学への所属を誇っていい大学だった。


私はその大学に合格するために、毎日努力を怠らなかった。高校3年生の時は予備校に毎日通い、一日12時間以上勉強した。夏休みも冬休みも返上で、お風呂に入っていても道を歩く時でさえ勉強した。


そんな私の努力を、母親と父親は陰で支え、サポートしてくれた。母親は専業主婦だったため、予備校が夜遅く終わった際には必ず駅まで迎えに来てくれた。夜遅く女の子が一人で帰るなんて危ないから、と言って。また夏休みなどは毎日手作り弁当を作ってくれた
当然のことであるが、私は高校3年生の一年間は、勉強以外のことをしたくなかった。だから身の回りのことはすべて母親がやってくれていた。だって私は勉強しなくちゃいけないんだから。

一度模試で志望校への合格判定がDになったことがあった。私は焦り、部屋でこっそり泣いた。母親はそんなとき何も言わずに私の好きなロイヤルミルクティーを作ってくれた。そして「あなたはできる子だから大丈夫」と言ってくれた

また父親は私が予備校に通う費用を、すべて払ってくれた。私は受験勉強において金銭的な心配をしたことは一度もなかった。


一方友人Aは私と異なっていた。彼女は兄弟が3人いて、弟の受験時期と彼女の受験時期が重なっていた。「だから親が予備校代出してくれないんだよね」と言っていた。彼女は結局予備校に通わず独学で勉強していた。しかし私が見た範囲では、彼女はほとんど勉強していなかった。多分、たとえ予備校に通っていても彼女は勉強をしなかったと思う。彼女は多分、勉強することが好きでないのだ、つまり努力することが苦手なのだ


友人Aは私と同じ私立高校(偏差値60程度)だった。私は中学受験をしたので、中学からの持ち上がりだったが、彼女は高校から入学してきた。親は共働きらしいが、彼女の話では、経済的に豊かではないらしかった。私立高校に入学したのは、「公立高校が第一志望だったのに、当日体調を崩して落ちた」らしい。彼女はその話を入学した当初、本当によく話した。「親に毎日恨み節言われてるよ」と彼女は笑ってたけれど、横顔は少し悲しそうだった。彼女は中学では塾に通っていないにもかかわらず、優秀だったらしい。


結局彼女は偏差値が高くも低くもない私立大学に推薦で合格した。最初は公立大学に行くと言っていたのに、途中で努力することが面倒になったらしい。「確実に入れるのに、努力するなんてあほらしいでしょ?」と彼女は言った。「それにうちの親、女の子がそんなにいい大学いかなくていいって、昔から言ってたから。
私は努力することをそれほど苦に感じていなかったので、彼女の発言はあまり理解できなかった。また、彼女の両親の発言はさらに理解できなかった。今は男女ともに活躍できる状況が社会には用意されているのに、何を言っているんだ?と思った。


大学に入ったあとも、彼女は生活費のために、居酒屋とファーストフード店でアルバイトばかりしていて、ほとんど勉強していなかった。
一方、私は来る就職活動を見据えて、学業だけではなく、長期の留学、インターンなど様々な活動に挑戦した。親もそのための金銭的サポートは惜しみなくしてくれた。就職活動では大学で何を経験し、その経験から何を得たかをアピールしなくてはならない。そのためのネタになることは何でもやった。


その努力の甲斐あって、私は大手企業に内定を得た。一方、友人Aは就職活動になってもアルバイトばかりしていた。その影響もあってか、就職活動でもたいして努力をしなかったので、内定を得るのに苦労しているようだった。結果、アルバイト先にそのまま就職した。その企業は激務らしく、なんでそんなところに就職するんだろ、と不思議に思った。まぁ決まらなかったからしょうがないんだろうけれど。


私は就職先でも努力し、営業として頑張った。結果が出ないこともあったけれど、同期と励ましあい、5年間一生懸命働いた。
しかし、27歳になったころ、同期が寿退社した。私はそのころ彼氏と別れたばかりで正直焦りを感じていた。


仕事は楽しかった。でも、27歳になって少しづつ今までのやり方が通用しなくなってきたことを感じていた。若い女の子」というアドバンテージが薄れてきていたのだ。もちろん私は仕事に一生懸命取り組んでいたと、思う。自ら若さや女を武器にしたことはない。けれど周りは勝手に私を「若い女の子」と解釈し、私が望もうと望まないとも、勝手に女の子として扱ってくれた。あらがって、「一人の社員としてみてほしい」ともいえたけれど、抵抗することに意味があるとは思えなかった。実際その役回りを演じることが、私の仕事の一つだと思っていたから。


また、27歳になって責任のある仕事を任されることも増えてきた。今まで下駄を履かせてくれていた上司が急に「もう若手じゃないんだから、今までの貯金でなんとかしようとするな」と言ってきた。
しかし私はあまりにも若い女の子」でいることに慣れすぎて、ほかの武器の使い方がわからなかった。仕事へのモチベーションが少しずつ下がっていることに私は気づいていた。


その折に今の夫と出会うことになる。彼は私の大学時代の友人の会社の同期で、某銀行に勤めていた。正直なところ同世代の割には「稼いでいる」男性だった。ルックスも悪くなく、この人と結婚したいと思った。彼もそう思ってくれたようで、1年の交際期間を経て、私たちは結婚した。


結婚するにあたって、私は会社を辞めた。彼は転勤が多く、結婚しても別居婚は嫌だと言っていた。私も嫌だった。くわえて私はその時点で28歳、結婚したらすぐに子どもが欲しかったし、仕事をしていないほうがいろいろと都合がいいと思った。だって、妊娠にはタイムリミットがあるのだから
そして私たちは結婚し、子どもを授かった。


しかし子育て中、私は壁にぶち当たった。それは私がどんなに努力しても、子どもは離乳食を食べてくれない、愚図って話を聞かない、言う通りにしないということだった。
むしろ努力すればするほど報われない。私は一生懸命本を読んだり、インターネットで情報を検索したりして、努力した。
しかし何もうまくいかない。そのときはじめて、努力してもどうにもならないことがこの世にあることを知った


そんなとき、街でAに遭遇した。私はその時本当におかしくなっていたんだと思う。私はそこで努力しても報われないこと、その辛さをAにべらべらと話していた。
彼女は当初、穏やかな顔で私の話を聞いていたが、突然鼻で笑いながらこう言った。


努力してもどうにもならないことがあること、今頃知ったの?おめでたい人生だったんだね。私はそんなこと、ずーーーーっと前から気づいてたよ」


私はその瞬間、周りの空気が凍ったように感じた。今まで知っていたAの顔とはまるで別人に見えた。


「あなた、ずっと自分だけが努力している、ってそのことに酔ってたもんね。私のこと、努力してないってずっと断罪してた。努力してないからそんな結果になったんでしょ?自分が努力してないから悪いんでしょ?って。」


自分が履いてきた下駄がどれほど高かったかって、あなた気づいてた?」


「最初から下駄を履かされている人間って本当そう。下駄を履いてることに気づかない。気づいても、私は好きで履いてるんじゃないんですって顔で、高いところから見下ろして、下駄を履いていない人間を批判してくるの。」


「あなたが努力をして報われたのは、努力をしなかった人がいたからなのよ。あなたが大学に受かったのも、就職活動で内定をとれたのも、だれかが落ちたから、誰かが内定をとれなかったからなのよ。それなのに、そういう人たちは努力をしなかったからだって決めつけて、その人たちを責めて自分の価値、努力の価値を誇示してくる。そういうのうんざりなの。」


最初からイスの数が決まっているのなら、誰かがあぶれるのは決まっている。誰かがあぶれるから、イスに座れる人がいるの。


私はその時はじめて、彼女のことをずっと馬鹿にしていたことに気づいた。そのとき、自分の周りの空気が完全に変わっていた。私が今まで信じてきたこと、当たり前に思っていたことは一体何だったのだろう。私の思考は停止し、ふわふわした状態のまま、その場で立ち尽くしていた。その日はどのように家に帰ったのか、あまり覚えていない。


後日、私は彼女が妊活で苦労していることを友人づてにしった。私は本当に彼女のことを知らなかった、知ろうともしていなかったのだ。

#HSPの功罪について考えてみた

HSPとは一体何か。

近年テレビ番組や書籍で「HSP」という概念を取り上げることが多くなっている。HSP(highly sensitive person)とは、脳における様々な感覚情報の処理に関する敏感さを示す、感覚処理感受性(sensory-processing sensitivity:以下SPS)が高い人をさす(Aron & Aron, 1997)。簡潔に言えば、周囲の環境に対する刺激への敏感さが高い人のことをさす。HSPは生得的な(生まれ持った)気質であり、全人口の20%があてはまるとされている。 

わたしは大学院で少し心理学をかじったのだが、恥ずかしながらこの概念を知らなかった。初めてHSPを知ったのがテレビのバラエティ番組であったため、その時は「なんだこの概念は?」と思った。その後書店でHSPを冠した書籍を見つけたため論文を検索してみると、HSPについての論文がいくつか見つかった。学術的な場所でも研究が進んでいるようだ。これまでの研究ではHSPの人たちの特徴として、うつや不安傾向が高いことが明らかにされている(髙橋,2016)。

 一方学術的な場以外でも、HSPは日常的に使用されることが多くなっている。これはインターネットの記事やブログ、書籍などでHSPを冠した記事が増加していることを背景にしているのだと考えられる。たとえば東洋経済新報オンラインでは、HSPを次のような概念として紹介している。

HSPとは、“Highly Sensitive Person(ハイリー・センシティブ・パーソン)”の略で、「人一倍繊細な人」と訳される。1996年にアメリカの心理学者のエレイン・アーロン博士が提唱した概念であり、病気や障害ではなく、音や光、相手の感情などまわりの環境から刺激を受けやすく、物事を深く考える傾向が強い気質を持った人のことをいう。

 

news.goo.ne.jp

 

 またHSPというキーワードでWebを検索すると、HSPの診断テストをいくつか見つけることができる。数十個の質問に答えるだけで、自分がHSPにあてはまるのかどうかがわかるようになっている(https://hsptest.jp/)。クリニックによってはHSP外来なるものも存在するようだ。

HSPを紹介するWebサイトではしばしHSPが障害ではなく、生まれ持った気質であることが強調されていた。そのようなHSPの性質もあってか、SNS上で自らがHSPであることを公表している人も多く見受けられる。芸能人も何人かの方がHSPであることを公表しているようだ。

上記で紹介した通り、HSPは近年話題にあがることの多い概念である。その一方でHSPにはいくつかの批判がなされている。たとえば「誰にでもあてはまる概念である」というHSPの概念そのものの批判もあれば、「HSPが障害ではないとすれば、人をHSPとしてカテゴライズすることに意味はあるのか」との批判がある。 本記事ではHSPの概念そのものに対する批判的検討というよりは、HSPが日常的に使用されることでどのような弊害があるのかについて整理することを目的にする。

本記事はHSPを批判的に捉えるものではあるが、HSPがあることでその当事者たちが救われているという事実は、重要なものとして受け止める必要があると考えている。実際にHSPの記事をみてみると、「HSPという名前があるからこそ救われた」などの声を見つけることができる。

note.com

そのような人からすれば、このようなHSPの批判に関する記事はあまり気持ちの良いものではないのかもしれない。しかしながらHSPに限らず、ある心理的概念が日常的に使用され始めるとき、その有用性とともに何かしらの弊害があることを心の片隅にでも置いていてもらえれば、とわたしは考えている。 

 

HSPは自分を理解するための地図になる一方で、自分らしさを縛る鎖にもなり得る

HSPのいくつかの記事をみると、HSPが生まれ持った気質として捉えられ、自分では変容させがたい気質として捉えられていることがわかる。HSPだけに限らず、個人には変化させがたい気質がある。そういった気質とうまく付き合っていくことは個人が社会や環境に適応していくうえで重要である。またHSPの性質を周囲の人が理解し、その人の気質をその人らしいものとしてポジティブに受け止めていくことは、個人の生きやすさを考えるうえで重要な視点でもある。

一方でHSPというラベルを自分に付与することは弊害もある。たとえばHSPの書籍はHSPとはこういう人であるという情報が詳細に紹介されていることが多い。このようなHSPらしさの提供により、自分がHSPだと考えた人たちが、ますますHPSらしく振舞うようになる可能性があるのではないだろうか。自分らしさがHSPで理解されるようになると、自分らしく振舞うということはHSPらしく振舞うということであり、自らの行動や思考パターンをHSPの特徴を元に規定していくことにつながり得る。

 

あなたの問題は果たしてHSPにあるのか

 

また、HSPは「今までうまくいかなかった」、「生きづらさ」の原因として語られる傾向にある。ここにも弊害があるように思う。それはうまくいかなかった原因がHSPのみで理解されてしまう危険性である。たとえば個人が何か心理的負担を抱えていた際に、その人がHSPであることが原因だと考えてしまった場合、他の原因が検討されない。もしかすれば別の心理的要因や障害が原因であり、適切な介入やサポートが受けられる可能性があったにもかかわらず、その可能性を失ってしまう危険がある。

特にHSPは障害や病気ではないとされ、個人が手に取りやすい概念である。自分がHSPであるとラベリングすることは、少なくとも自分に何かしらの障害があると考えるよりは心理的抵抗感が低いのではないだろうか。また、先述した通りHSPは書籍やWEBなどで取り上げられることが近年多くなっており、情報のアクセスのしやすさゆえに、自分がHSPであると診断(HPSが障害でないため、ここでは診断は適切な表現ではないのだが、やむをえずこのような表現とした)してしまう危険性があるように思う。

また環境的要因に原因があったとしてもそれを見過ごしてしまう危険性もある。極端な例を出せば、パワーハラスメントが横行している職場であった場合、一定数の精神的に強い人間(ここでは極端にHSPが低いとされるひとたち)は適応できたとしても、多くの人間は適応できない。その場合であっても、「わたしがHSPだから仕方がない」と考えてしまえば、環境の問題はうやむやになり、問題視されないことになってしまう。

様々な心理的概念や心理テストに振り回されないために

ところで近年はHSPに限らず、様々な心理テストがあり、インターネットなどで簡単に測定できるものも増えている。その簡便さゆえ、つい実施してみたくなるが、内容は十分に精査されていないものも多いように思う。実際わたしはHSPのテストを受験したが、だれにとっても当てはまりやすい項目が多くなっているような印象であった。(ちなみにHSPの傾向が強いと判断された。苦笑)

なにかしらの問題を抱えている人がこのようなテストを受験すると、やはりHSPと診断される可能性が高く、結果問題の諸要因をHSPに帰してしまうということに繋がりやすいのではないだろうか。

HSPが病気や障害でないという前提は、このような診断テストを専門家でない人間が簡単に作成できる状況を生じさせ、問題を抱える当事者たちが自分をHSPであると簡単に判断(診断)しやすい状況を作り出している。

ある心理テストで不適応に陥る可能性のある得点が高かったとしても、環境に恵まれていて、十分にやっていけているということはある。一方で環境があまりにもひどく適応できていない場合もある。個人の適応、不適応はある個人の特性や人格や環境だけでなく、様々な要因が絡み合っている。したがって、なにかしらの困難を抱えている場合、自己判断で特定の内的要因にのみ原因を帰することは弊害が大きいように思う。

 

ここまで述べてきたが、わたしはHSPについては当事者でも、専門家でもない。したがって十分な議論ができていない箇所も多かろうと思う。HSPについては自分も勉強中である。これからもその動向を注視し(時間が許す限り)情報を更新していきたい。

 

なお、またHSPについての批判は、既に次のtwitterでも三田村先生(三田村研究室アカウント)が整理をされておりました。そこで#HSPの功罪 というタグが出されておりましたので、タイトルはそちらで書かせて頂きました。

 

 

参考文献

Aron, E. N. (1997). e highly sensitive person. New York:
Broadway Books.
髙橋亜希. (2016). Highly Sensitive Person Scale 日本版 (HSPS-J19) の作成. 感情心理学研究23(2), 68-77.

 

自己肯定感ブームに巻き込まれないために

近年、自己肯定感ブームと呼べるような自己肯定感にかかわる書籍の出版が相次いでいる。とりわけ家庭教育に関する書籍において自己肯定感を冠する書籍は多い。

※ちなみに本ブログで出てくる自己肯定感にかかわる書籍は言及がなければ、おすすめ書籍でも、批判する対象でもなく、あくまで例として出したものです。

子どもの自己肯定感を高める10の魔法のことば

子どもの自己肯定感を高める10の魔法のことば

  • 作者:石田 勝紀
  • 発売日: 2018/07/26
  • メディア: 単行本
 

また学校教育においても、自己肯定感を高めることは重要な教育課題とされている。

https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo0/gijiroku/__icsFiles/afieldfile/2017/06/27/1387211_07_1.pdf

 

筆者は子育て中ということもあり、自己肯定感について書かれた書籍をいくつか読んだことがある。そのほとんどは子育て中の母親に向けた書かれた育児本であった。またそのような書籍でなくとも、塾や習い事のチラシやWeb広告において、自己肯定感が紹介されていることがあった。ほかにも一般的な育児本で子に身につけさせるべきものとして自己肯定感が紹介されていることがある。

もう悩まない!自己肯定の幸せ子育て

もう悩まない!自己肯定の幸せ子育て

 

 これらの本を読む中で筆者は、自己肯定感があまりに万能な概念として使用されていることに違和感を持った。一部の自己肯定感に関する書籍では、自己肯定感が低いと非行に走ったり、社会を生き抜けないような言いようがなされていることがあった(※ちなみに画像の本ではありません。あしからず。)。まるで自己肯定感を育てることが子育ての第一目標のように書かれた書籍もある(注釈1)

 

自己肯定感は英語でSelf-Esteemと訳される。日本において自己肯定感は、「自尊心」「自尊感情」「自己有能感」と同じような概念として使用されている(分別する場合もある)。また自己肯定感という言葉を使用していてもその内実は一般的に使用されている自己肯定感の概念とは大きく異なっていたりと、概念が明確に整理され、使用されているとは言えない状況にある。※この状況は特に学術書といえない書籍に顕著である(注釈2)

このような概念整理を明確にしないまま自己肯定感という概念が一人歩きする様子もみられる。

 

筆者は家庭教育や一部の学校教育において、極端なほどに自己肯定感を信仰している現在の状況を少し不安視している。そもそも自己肯定感は高い方がいいのだろうか?

何を言ってるんだ、自分を肯定的に捉えている程度は高い方がいいに決まっているだろう、という方が多数かもしれない。

 

実際これまで自己肯定感にかかわる膨大な研究がなされ、自己肯定感は精神的健康や適応と正の関連があるとされている。したがって自己肯定感がポジティブな概念であり、教育するべき資質であるというのが、一般的な共通理解であるだろう。

しかし一部の心理学の研究においては、自己肯定感が必ずしもポジティブな概念として捉えられていないケースも見受けられる。

たしかに現実的な場面で考えても、自己肯定感が高くともそれが他者の評価をともなっていない場合、(つまり自己肯定感は高いが他者は評価していないという状態)それが望ましい状態と言えるかは疑わしい。

 

自己肯定感が子どもの育ちを見ていくうえで重要な概念であることは否定しない。しかし自己肯定感が高くなくてはいけないというメッセージばかりが声高に伝えられ、それにばかり囚われてしまう危険性が現在の育児、教育現場にはあり、その状況が非常に問題だと考えている。また、子育てや教育においては自己肯定感以外にも注視すべき様々な概念があるにもかかわらず、なぜ自己肯定感が唯一絶対のもののように語られ、やたらと世間が注目しているのか?そこが怖いのである。

 

筆者は、自己肯定感ばかり目を向けるのではなく、もう少し幅広く子どもの発達を捉えていく必要があると思う。自己肯定感に着目しているだけでは、子どもの育ちにおいてより重要なことを見落としてしまうのではないだろうか。

 

子どもの気質によって自己肯定感に違いがあるのは普通であり、たとえ自己肯定感が低い(と思われる)子どもであっても、それがとりわけ悪いことのようには筆者には思えないのだ(ここは筆者が自己肯定感の専門でないこと、不勉強であることと関わっているかもしれないのだが)。自己肯定感が問題となるのは、自己肯定感の高低と不適応な行動が明らかに結びついている場合ではないのだろうか。つまり自己肯定感の低下が、生活上における問題に影響を及ぼしていると認められた場合である。

そうでない場合、子どもからすれば自己肯定感なんて意識しなくても楽しくやれているということもあるだろう。にも拘わらず、やたらと周囲の大人が「自己肯定感は高めなければならない」「自分を愛しなさい」というメッセージばかり与え続けることで、逆に子どもの心理的な負担が増大する可能性はないのだろうか。

 

また自己肯定感は時や状況によって変動すると考えられ、自己肯定感が上がったり下がったりすることは、とりわけ思春期の子どもたちにおいては常々おこることであるだろう。思春期においては友人や先輩と自分を比較することが多くなってくるため、そこで自分を嫌悪したりすることも起こりうる。

そこで無理に自己を肯定して自己肯定感を短期的に上げることが望ましいとは思えない。むしろ時間がかかっても、理想の自分と現実の自分とどう折り合いをつけていくのか、つまりどのように自己を形成していくのかが、自己肯定感の高低よりも重要なことであり、周りの大人が注視すべきことなのではないだろうか。その結果、自己肯定感が高くなったということであればよかったよかったという話にはなるが、重要なのはその折り合いのプロセスである。

 

自己肯定感だけ高ければそれでよいということはない。少し話がそれるが、一部の書籍やWebサイトでは自己肯定感が学習意欲に高い影響を及ぼすという記載がみられた。学習意欲に影響を及ぼす可能性のある概念など、自己肯定感に限ったものではない。なぜ自己肯定感ばかりに注目するのかが謎であった。

 

ここまでいうと筆者が自己肯定感という概念そのものを否定しているようにとらえられる可能性があるが、もちろんそんなことは全くない。

毎日子育てに奮闘する身としては、やはり自分の子どもにも自己肯定感をもってもらえたらなと思っている。しかし自己肯定感が高ければそれでいいのか?自己肯定感を高めるための教育の限界や危険性はないのか?てかそもそも自己肯定感って何?という疑問は常々抱いている。

 

近年の自己肯定感ブームはまるで自己肯定感さえあればすべてが解決するような物言いをしている記述も多くみられ、まるで自己肯定感を高めればすべてが解決するような、万能薬のように考えているように見受けられる。しかもそのような主張に限って自己肯定感を明確に定ていないような気がするのだ。

 

とはいえ残念ながら筆者は自己肯定感の専門家ではない。そこで本blogでは自己肯定感の有用性、自己肯定感ブームの問題点など、さまざまな概念や論文について紹介していく予定・・・です。相当お暇な方はぜひみてみてください。

 

結論

子育て中の親御さん、

自己肯定感にかかわる書籍の一部はあやしいので、気を付けてください。

 

 

この書籍は↓面白そうですね。読んだらまた記録したいと思います。

 

 

 

もっと知りたい方は・・・こちらの論文や記事はいかがでしょうか。

 

 

 

 

注釈1

自己肯定感は適応的な指標とされてきたが、その見解に矛盾する結果もみられるようである。たとえばBaumeister,Smart ,&Boden, (1996)では暴力的な行為や危険な行為の遂行に関しては、むしろ自尊感情の高い者において多く見られることが明らかにされているようだ。この論文はまだちゃんと読めていないので、一応引用だけ載せておきます。

Baumeister,R.F.,Smart,L.,& Boden,J.M.1996 Relation of threatened egotism to violence and aggression : The dark side of high self-esteem. Psychological Review,103,5-33.

 

注釈2

心理学の分野では自己肯定感というより、自尊感情とされる方が多いのでしょうかね。どの定義においても共通理解としては、「自己に対する肯定的な見方や価値ある
存在としての感覚という点である」(岡田ほか,2005)ようです。

 岡田涼・小塩真司・茂垣まどか・脇田貴文・並川努 (2015). 日本人における自尊感情の性差に関するメタ分析. パーソナリティ研究, 24(1), 49-60.