#HSPの功罪について考えてみた

HSPとは一体何か。

近年テレビ番組や書籍で「HSP」という概念を取り上げることが多くなっている。HSP(highly sensitive person)とは、脳における様々な感覚情報の処理に関する敏感さを示す、感覚処理感受性(sensory-processing sensitivity:以下SPS)が高い人をさす(Aron & Aron, 1997)。簡潔に言えば、周囲の環境に対する刺激への敏感さが高い人のことをさす。HSPは生得的な(生まれ持った)気質であり、全人口の20%があてはまるとされている。 

わたしは大学院で少し心理学をかじったのだが、恥ずかしながらこの概念を知らなかった。初めてHSPを知ったのがテレビのバラエティ番組であったため、その時は「なんだこの概念は?」と思った。その後書店でHSPを冠した書籍を見つけたため論文を検索してみると、HSPについての論文がいくつか見つかった。学術的な場所でも研究が進んでいるようだ。これまでの研究ではHSPの人たちの特徴として、うつや不安傾向が高いことが明らかにされている(髙橋,2016)。

 一方学術的な場以外でも、HSPは日常的に使用されることが多くなっている。これはインターネットの記事やブログ、書籍などでHSPを冠した記事が増加していることを背景にしているのだと考えられる。たとえば東洋経済新報オンラインでは、HSPを次のような概念として紹介している。

HSPとは、“Highly Sensitive Person(ハイリー・センシティブ・パーソン)”の略で、「人一倍繊細な人」と訳される。1996年にアメリカの心理学者のエレイン・アーロン博士が提唱した概念であり、病気や障害ではなく、音や光、相手の感情などまわりの環境から刺激を受けやすく、物事を深く考える傾向が強い気質を持った人のことをいう。

 

news.goo.ne.jp

 

 またHSPというキーワードでWebを検索すると、HSPの診断テストをいくつか見つけることができる。数十個の質問に答えるだけで、自分がHSPにあてはまるのかどうかがわかるようになっている(https://hsptest.jp/)。クリニックによってはHSP外来なるものも存在するようだ。

HSPを紹介するWebサイトではしばしHSPが障害ではなく、生まれ持った気質であることが強調されていた。そのようなHSPの性質もあってか、SNS上で自らがHSPであることを公表している人も多く見受けられる。芸能人も何人かの方がHSPであることを公表しているようだ。

上記で紹介した通り、HSPは近年話題にあがることの多い概念である。その一方でHSPにはいくつかの批判がなされている。たとえば「誰にでもあてはまる概念である」というHSPの概念そのものの批判もあれば、「HSPが障害ではないとすれば、人をHSPとしてカテゴライズすることに意味はあるのか」との批判がある。 本記事ではHSPの概念そのものに対する批判的検討というよりは、HSPが日常的に使用されることでどのような弊害があるのかについて整理することを目的にする。

本記事はHSPを批判的に捉えるものではあるが、HSPがあることでその当事者たちが救われているという事実は、重要なものとして受け止める必要があると考えている。実際にHSPの記事をみてみると、「HSPという名前があるからこそ救われた」などの声を見つけることができる。

note.com

そのような人からすれば、このようなHSPの批判に関する記事はあまり気持ちの良いものではないのかもしれない。しかしながらHSPに限らず、ある心理的概念が日常的に使用され始めるとき、その有用性とともに何かしらの弊害があることを心の片隅にでも置いていてもらえれば、とわたしは考えている。 

 

HSPは自分を理解するための地図になる一方で、自分らしさを縛る鎖にもなり得る

HSPのいくつかの記事をみると、HSPが生まれ持った気質として捉えられ、自分では変容させがたい気質として捉えられていることがわかる。HSPだけに限らず、個人には変化させがたい気質がある。そういった気質とうまく付き合っていくことは個人が社会や環境に適応していくうえで重要である。またHSPの性質を周囲の人が理解し、その人の気質をその人らしいものとしてポジティブに受け止めていくことは、個人の生きやすさを考えるうえで重要な視点でもある。

一方でHSPというラベルを自分に付与することは弊害もある。たとえばHSPの書籍はHSPとはこういう人であるという情報が詳細に紹介されていることが多い。このようなHSPらしさの提供により、自分がHSPだと考えた人たちが、ますますHPSらしく振舞うようになる可能性があるのではないだろうか。自分らしさがHSPで理解されるようになると、自分らしく振舞うということはHSPらしく振舞うということであり、自らの行動や思考パターンをHSPの特徴を元に規定していくことにつながり得る。

 

あなたの問題は果たしてHSPにあるのか

 

また、HSPは「今までうまくいかなかった」、「生きづらさ」の原因として語られる傾向にある。ここにも弊害があるように思う。それはうまくいかなかった原因がHSPのみで理解されてしまう危険性である。たとえば個人が何か心理的負担を抱えていた際に、その人がHSPであることが原因だと考えてしまった場合、他の原因が検討されない。もしかすれば別の心理的要因や障害が原因であり、適切な介入やサポートが受けられる可能性があったにもかかわらず、その可能性を失ってしまう危険がある。

特にHSPは障害や病気ではないとされ、個人が手に取りやすい概念である。自分がHSPであるとラベリングすることは、少なくとも自分に何かしらの障害があると考えるよりは心理的抵抗感が低いのではないだろうか。また、先述した通りHSPは書籍やWEBなどで取り上げられることが近年多くなっており、情報のアクセスのしやすさゆえに、自分がHSPであると診断(HPSが障害でないため、ここでは診断は適切な表現ではないのだが、やむをえずこのような表現とした)してしまう危険性があるように思う。

また環境的要因に原因があったとしてもそれを見過ごしてしまう危険性もある。極端な例を出せば、パワーハラスメントが横行している職場であった場合、一定数の精神的に強い人間(ここでは極端にHSPが低いとされるひとたち)は適応できたとしても、多くの人間は適応できない。その場合であっても、「わたしがHSPだから仕方がない」と考えてしまえば、環境の問題はうやむやになり、問題視されないことになってしまう。

様々な心理的概念や心理テストに振り回されないために

ところで近年はHSPに限らず、様々な心理テストがあり、インターネットなどで簡単に測定できるものも増えている。その簡便さゆえ、つい実施してみたくなるが、内容は十分に精査されていないものも多いように思う。実際わたしはHSPのテストを受験したが、だれにとっても当てはまりやすい項目が多くなっているような印象であった。(ちなみにHSPの傾向が強いと判断された。苦笑)

なにかしらの問題を抱えている人がこのようなテストを受験すると、やはりHSPと診断される可能性が高く、結果問題の諸要因をHSPに帰してしまうということに繋がりやすいのではないだろうか。

HSPが病気や障害でないという前提は、このような診断テストを専門家でない人間が簡単に作成できる状況を生じさせ、問題を抱える当事者たちが自分をHSPであると簡単に判断(診断)しやすい状況を作り出している。

ある心理テストで不適応に陥る可能性のある得点が高かったとしても、環境に恵まれていて、十分にやっていけているということはある。一方で環境があまりにもひどく適応できていない場合もある。個人の適応、不適応はある個人の特性や人格や環境だけでなく、様々な要因が絡み合っている。したがって、なにかしらの困難を抱えている場合、自己判断で特定の内的要因にのみ原因を帰することは弊害が大きいように思う。

 

ここまで述べてきたが、わたしはHSPについては当事者でも、専門家でもない。したがって十分な議論ができていない箇所も多かろうと思う。HSPについては自分も勉強中である。これからもその動向を注視し(時間が許す限り)情報を更新していきたい。

 

なお、またHSPについての批判は、既に次のtwitterでも三田村先生(三田村研究室アカウント)が整理をされておりました。そこで#HSPの功罪 というタグが出されておりましたので、タイトルはそちらで書かせて頂きました。

 

 

参考文献

Aron, E. N. (1997). e highly sensitive person. New York:
Broadway Books.
髙橋亜希. (2016). Highly Sensitive Person Scale 日本版 (HSPS-J19) の作成. 感情心理学研究23(2), 68-77.